天台宗

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最澄 さいちょう 767~822

 

平安仏教の代表的人物で、空海とならび称せられる日本仏教界の指導者。最大の功績は比叡山において、日本天台宗を開創したこと。諡号(しごう)は伝教大師。


最澄は、近江(おうみ)国に渡来人の子孫三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、幼名は広野といった。12歳のとき近江国分寺の行表(ぎょうひょう)のもとに弟子入りし、出家して名を最澄とあらためた。785年(延暦4)4月東大寺で受戒したが、同年7月突然比叡山にのぼって修行生活にはいった。788年に草庵をかまえて薬師如来を安置し、793年堂舎を整備して一乗止観院(のちの根本中堂)と称した。そして多くの経典をまなぶうち、天台教学にひかれるようになった。


797年(延暦16)最澄は内供奉(ないぐぶ)十禅師にくわえられ、翌年比叡山で法華経の経典を講説する講会(こうえ)をはじめ、802年には南都の十大徳とともに高雄山寺で天台を講じた。804年7月、桓武天皇の天台振興の志をうけて、遣唐使とともに短期留学僧として渡唐。台州や天台山で、中国天台7祖の道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台の教えを、さらに越州の順暁(じゅんぎょう)から真言密教の法をうけ、また翛然(しゅくねん)から禅法をまなんで、翌805年5月230部460巻におよぶ経巻をたずさえて帰朝した。帰国後、天台の教学を諸学僧に伝授し、秘密灌頂をさずけた。806年、天台宗からも毎年正式な僧2人をだすことを朝廷に申請し、正式にみとめられた。これは天台宗が南都六宗にならんで、国家の宗教として公認されたことを意味していた。


最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相宗の学僧徳一が「仏性抄」をあらわして天台宗を批判したため、最澄は817年「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」を書いて、これに反論した。以後天台宗と法相宗の教義をめぐり数年にわたって論争がつづけられた。徳一は人間には小乗の教えにたつ人、大乗の悟りをひらく人、悟りをひらくことのできない人の区別があるという三乗思想を主張した。これに対して最澄は、小乗の教えも大乗にみちびくための方便であって、仏教によってすべての人が悟りをひらけるという一乗思想を展開した。


最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家をまもること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒をうけるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなければならなかったため、最澄は「山家学生式」を提出して比叡山に大乗戒にもとづく戒壇を建設する許可を朝廷にねがいでた。これは南都仏教側からの猛烈な反論をうけたが、彼は「顕戒論」(3巻)をあらわして逐一反駁(はんばく)するなど、大乗戒壇の設立に全精力をかたむけた。しかし、彼の生前にはその努力はみのらず、最澄は822年比叡山の中道院でなくなった。結局大乗戒壇設立の許可がおりたのは、没後7日目のことであった。

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  • 宗祖の直筆に基づく般若心経
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