観音寺だより

icon 今月の言葉


  最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得ん。常転常講二六歳を期し、念誦護摩十二年を限る。然れば則わち仏法霊験ありて国家安寧なることを得ん。
  (伝教大師『顕戒論』)


2010年1月16日(土)


こ宗祖の最澄さんは二十才のとき東大寺の戒壇で受戒しました。当時、国家公認の僧侶となるためには、いわゆる天下の三戒壇(東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺)のいずれかで受戒することが必須だったからです。


しかし最澄さんは後年、東大寺で受けた戒は小乗戒であると棄捨。比叡山上に従来の制度から独立した大乗戒を授与するための大乗戒壇院を建立することを発願しました。


前代未聞のこの行動は、平安遷都を機に新しい時代にあった僧侶の育成、すなわち『法華経』の精神に則った菩薩僧を比叡山で一貫教育するために構想されたものです。


では、最澄さんが具体的にどのような僧侶を養成しようとしていたのか。それは朝廷に提出された六条式(弘仁九年五月十三日付)、得業学生式(同十五日付)、八条式(同年八月二十七日付)そして四条式(弘仁十年三月十五日付)(これらはまとめて『学生式』と呼ばれる)という一連の諸規定に詳しく示されています。


それらによると、最澄さんは、(1)僧侶になるための基本的な素養の習得(得業学生=六年間)→(2)受戒→(3)国家公認の僧侶に相応しい学問と修行(年分学生=十二年間)という教育課程を思い描いていたことが知られます。


「今月の言葉」にもある十二年という年限は『蘇悉地羯羅経(ソシツジカラキョウ)』という密教経典を典拠としています。最澄さんは、大乗戒檀の正当性を証明するために著した『顕戒論』のなかで、「住山修学、十二年を期するの明拠を開示す」という章をたて、同経から、十二年間くりかえし念誦をすればどんな重罪があっても誰でも目的を成就できるだろうという一節を引用、「最下鈍の者」でも「一験」を得、国家安穏に資する有為な人間になりうることの経証としています。


最澄さんはこの十二年を前後に分け、初めの六年間は「聞慧」といって講義の聴講等を中心とし、傍ら「思修」すなわち思索と実践的な修行を行い、後半の六年間はそれぞれの配分を逆にすると規定。また、学習内容としては一日の三分の二を仏教典籍の研究(内学)に、残りの時間を仏教以外の学問(外学)にあて、学んだことの応用実践を説いています。


十二年というのは干支の一周りに相当し、現在の学制のうち小学校六年間と中高校の六年間に合致する点、一つの節目として、乃至土台を作るための期間として適切なのかもしれません。他方、「聞慧」と「思修」の比重、実践の重視、そして「内学」を中心としつつ「外学」に配意したカリキュラムは現代にも通ずる合理性を有しているといえます。


十二年籠山の制は今も比叡山で実践されています。ただ山に籠らずとも自分が選んだ道を究める修行期間として十二年間、決して短くはありませんが、最澄さんを信じ愚直に精進すること、あるいは少なくとも最澄さんの精神を継承することは私達にも可能でしょう。


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