観音寺だより

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  凡そ差別なきの平等は仏法に順ぜず 悪平等の故なり
  また
  平等なきの差別も仏法に順ぜず 悪差別の故なり
  (伝教大師最澄『法華去惑』)


2009年12月1日(火)


これは、宗祖伝教大師さまの『法華去惑』という著作のなかにでてくるお言葉です。差別は「しゃべつ」と呉音で読みます。


さて、みなさんも、中道(ちゅうどう)という言葉を耳にしたことがあると思います。中道というのは、仏教におけるものの正しい見かたのことです。仏教では、偏ったものの見かたを戒めます。宗祖のこのお言葉は、まさにそのことを語っています。


仏教ではすべての事象は「空」であると考えます。たとえば、りんご、と私たちが認識する果物には、それ自身に独立して、その果物をりんごたらしめる、いわばりんご性というものがあるわけではなく、複雑多様な関係性、つまり縁起というありかたのもと、仮にりんごなるものとしてあるにすぎないととらえるわけです。


このことは、私たちをとりまくあらゆる存在、運動、要素、言葉その他すべてにあてはまり、実体的な我はないという意味(諸法無我)において、一切諸法は成り立ちとして平等であると、仏教ではみるのです。


ただ、宗祖はこの諸法の平等面だけを強調したとらえかたを「悪平等」と表現し、仏教的なみかたではないといっています。なるほど諸法は平等な原理で成立しているとしても、私たちが眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官と意という知覚器官を通して認識するさまざまな事象は、いわば空の作用としてそれぞれ独自の個性をもち、異なるすがたをして存在し、現実世界を構成しています。宗祖は、この現実相を全く無視した平等論は一面的な理想論にすぎないと批判しているのです。


では、外界の事象の差別相をどう観るべきか。この点、宗祖は一切皆空の理を得道し、諸法の本質的平等を観ずる目をもたず、無節操に現実相にとらわれるならば、前述の偏った平等の主張同様に仏教の道理にかなわない「悪差別」になるといっています。


もうおわかりだと思いますが、今回採り上げた言葉は、「悪平等」、「悪差別」の用語によって仏教的外界のとらえかたである中道について説いているのです。さまざまな誘惑に満ち溢れた世界に生きる私たちの欲望は、次から次へと湧き起こり尽きることがありません。このカラフルな差別相によって成立する現実世界で、日々、過度の執着をもたず真に自由に生きていくには、「悪平等・悪差別」に陥らないようにすることが肝要なのです。


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