観音寺だより

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   ご質問 : 来世はあるのでしょうか


2009年12月22日(火)


今回のご質問はとても古く、かつまた新しい難問です。死後の世界はあらゆる社会、あらゆる時代を通じて無関心ではいられない問題だからです。


私たち人類は、来世の有無について太古よりさまざまに思考、議論をし、時代や地域あるいは階級差等を踏まえ、それぞれの実情に合った民族的色彩の濃い、固有の来世観を形成してきました。にもかかわらず、私たちはそれを肯定するにしても否定するにしても、結局、来世について確実なことは何も知らず、絶対的なことは言えないということを認めざるを得ません。まずはこの点を留意すべきでしょう。


仏教学者の渡辺照宏氏は『死後の世界』のなかで、来世について、「古くから固定した形態を持ったものではなく、社会的通念や、宗教的理念によって、さまざまに変化する」とし、「それらの通念や理念が一般に通用しなくなると、新しい形態を生みだすか、さもなければ無意味な子供だましとしてしか受けとれなくなる」ので、「個人の考えですべての人を一様に論ずるわけにはいかない」と述べています。


日本の場合、死者の世界は山中にあると信じられていたところ、仏教の地獄・極楽の思想の影響を受け、独自の来世観が形成されたといわれています。その後、より日本人の心情にしっくり合う形で発達した地獄・極楽という死後の世界のイメージは、人々の希望乃至恐怖を喚起し、因果応報という考え方の浸透と相まって長い間、説得力をもって機能してきたといえます。

一般にある来世像がリアルに受容される場合、現実の世界の価値観やニーズの反映があるとされます。今回の質問の本質は、現代におけるこの関係性の決定的な欠如にあるのだと思います。つまり、従来の来世観は現実と乖離しすぎてイメージ出来ない。かといって来世は存在しないとは言い切れない人間の弱さからくる不安の表れというわけです。


この原稿を執筆中、たまたま作家の津本陽さんが、日経新聞の「私の履歴書」で、「いま、私より年上の家族で健在でいるのは、次姉の由紀子だけである。『さびしいね』と私は自分にいってみる。たしかにその通りだが、いっぽうでにぎやかな感じがある。祖母からくりかえし教えられた通り、家族がいったどこかへ自分もゆくという確信が身内にあるからだ」(12/7付)と述懐されているのを読みました。


津本さんは、幼少期から浄土真宗の篤信者であった祖母の朝晩の読経にくっついていたそうです。ご質問の答えにはならないかもしれませんが、この記事には来世の有無についてのヒントがある気がします。それは現世と来世は表裏をなし、連続しているということです。つまり日々の生活や経験、先人の教示等を通して、個々人が自然な形で死後の安心を育むことが理想的な来世の在り様だといえます。


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