観音寺だより

icon いのちを見つめる ~ 葬儀式にみる不易流行と死後の安心(あんじん)~


2010年2月25日(木)


本間 皆さんこんにちは。初めに、今日私と一緒にお話をさせていただく佐々木さんに、所属しておられる組織の説明についてしていただきます。

法人で、事業内容はいろいろあります。私はその中の結婚葬儀各種祭事の支援という事業部におりまして、通常、二十四時間三百六十五日、無料の、お葬式や仏事に関する相談窓口をやっています。

 そこでは二十四時間、相談にのってものってもお葬式に関する不安やトラブルというのがなかなか無くなっていかなくて、何故と考えた時に、一般の方がお葬式に関する情報を得る場がまだまだ少ないと気付きました。今は東京の本部以外

に札幌・京都・大阪に支部を置きまして

結局、「不易」と「流行」の根本は一つのものであり、芭蕉はそれを「風雅の誠(まこと)」とよんでいる》とあります。

私が二十年間葬儀に携わってきたなかで、一番はっきりと表れている変化は葬儀の規模や時間が縮小傾向にあることです。家族葬や密葬と称して少人数で行う葬儀が増えましたし、通夜・葬儀の読経時間も明らかに短くなった気がします。

二十年前は四十五分ぐらいだった読経時間が、最近は三十~三十五分になっています。私の場合、読経しながら皆さんが背後でお焼香したりする気配を感じているわけですが、正直、長すぎる読経に退屈されている様子は伝わってきます。ですからある程度皆さんのニーズを察知し、読経の時間を調節したりもします。

「不易流行」の語を表題に用いたのはこの意味においてであります。

まず、我々以上に様々な葬儀の現場を体験されている佐々木さんに、客観的視点から分析していただこうと思います。

「流行」の顕著な例として、関東ではめっきり少なくなってしまった「枕経」について現場の状況をお話ください。

佐々木 皆さまの中で枕経の場面に居合わせたことのある方はいらっしゃいますか。……やはり少ないですね。最近、関東では枕経自体を知らない方が多いです。関西では枕経は行うけれども、亡くなった直後にではなくて、お通夜開始前に行うという方が増えてきました。その理由として、ご遺族は、家族が亡くなった直後の慌ただしい中へお坊さんが来ればお茶を用意したりお布施の心配をしたり、つまりお坊さんをもてなさなければいけないという思いが煩わしいという思いになる。葬儀社側は、亡くなった日に枕経を行う段取りをして翌日お通夜の段取りをする、というよりはお通夜に併せて行ってもらったほうが楽。お坊さんも、何度も足を運ぶより一回で済んだほうが楽。

 そんなことで、特に京都ではお通夜の開始前に枕経を読んでいただくという形が増えています。これが大阪では枕経そのものがもう要らないのではないかと考える方が増えています。そこには煩わしいとの思いの他に、通夜・告別式の他に枕経の部分でもお布施を包まなければいけないという、金銭的な理由が多分にあるように感じます。

本間 安心よりも面倒を避けるほうが勝るということですね。私も「枕経」減少は僧俗両方の側の需要に即応した現象だと考えます。勿論異論もあるでしょうが、実感としてそれを感じております。

 次に繰り上げ初七日乃至繰り上げ四十九日、或いは式の中に組み込む式中初七日の普及について現場ではどのように行われているかお話ください。

佐々木 関西ではまだまだ七日後に初七日を行う方が多いですけれども、お葬式当日に火葬の後で初七日をするという形が増えて来つつあります。

本間 経済的にほかを選びようがないという不可避的選択で直葬を選ぶ方。もう一方は主体的選択といいますか、供養とか安心といったものは重要視せず、費用の安さに着目して選ぶ方、或いは日本人特有ともいえる相手に迷惑を掛けてはいけないという配慮から選んでいるという場合があるわけですね。

簡略化した葬儀式を選択する背景に、こうした二極化の傾向がみられるということですが、そこにはまさに社会問題として捉えるべき面があり、例えば後者の場合、家族観や家族形態の変化に起因する人間関係の希薄化という問題が潜在していると考えられます。

この点、お寺の側としては、檀家さんが簡略化した葬儀を選んだ場合、その理由を顧慮することなく、それを選択したという現象面だけを問題視して、伝統的な儀式を軽視した態度はけしからんといった見方になりがちです。こうした独断は悪循環を招くだけといえますので、僧侶は疎遠になりがちな檀家さんとの関係を見直すとともに、多様化する選択肢にも配意する必要があるでしょう。

それでは次に「不易」の面を考えていきたいと思います。形式面における変化は著しいわけですけれども、心のケアの重要性と申しますか、遺された人、或いは亡くなった方の安心への配慮こそがより大切なわけです。そこで直葬を取り上げ、僧俗の本音を通してこの問題について考えていくことにしましょう。まず、現場の声をうかがってみたいと思います。

一つ実例を申し上げます。お父さんが火葬だけの葬儀を希望して亡くなられたという息子さんが、父親の希望通りの葬儀をしたいと私共に相談をしてこられ、一緒に考えて段取りを付けました。それをその方が菩提寺に連絡しましたら、住職に「そんなのは葬儀じゃない」と言われ葬儀社をキャンセルさせられました。段取りは一からやり直しです。結局、お金の無かった息子さんはローンを組まざるを得ませんでした。

ローンを組まされてまでやらなきゃいけなかった葬儀って一体何なのでしょうか。「そんなのは葬儀じゃない」というのは建前であって、本音はお布施にあるのではないかと非常に疑問を感じました。

お布施の金額については、既にそうしているお寺も見受けられますが、寺檀のあいだでなかなかオープンな形では話し合えていないのが実状といえます。多くの僧侶が、お布施の金額を設定するとそれは労働の対価ということになり税金がかかってくる、だから「お気持ちで」としか言えないと力説します。従前、この考え方は大方の支持を得ていたようですが、詭弁とはいわないまでも、建て前にすぎないという面は否定できず、今後直葬のような形態が増えるとすれば、お布施の多寡をめぐる寺壇の意思疎通はさらに難しくなってくると予想されます。

葬儀式の簡略化を葬儀社主導の所産とみる見解には一理あると思いますし、直葬の急速な増加は脅威に違いません。ただ、ここはやはり自省するところは自省して、葬儀をとりまく外的な変化に即応できるよう、例えばこのような会に参加していろんな方と意見交換したり、僧侶と檀信徒が腹を割って話し合う機会を増やしていくことが双方にとって有益なのではないでしょうか。

法要時間を短縮するというのは、ある意味特殊なことではなく、例えば天台宗の代表的な法華懺法という法要は如法にやれば二時間以上かかりますが、臨機に式次第をやりくりして半分以下の時間で終わるようにするなどはよく行われています。あるいは長い経典は中間部分を飛ばして読むことも昔からあります。

まさに不易流行といいますか、核となる部分さえ外さなければ、実際的なニーズが優先されてしまう典型例といえると思います。法要を通して伝えようとする内容自体は普遍的であるべきですが、形式面は、その時々の流行や地域性に寛容である方が場合によっては、健全といえるかもしれません。

ということで、私は最近書き下しの読経を臨機に法要に取り入れているのですが、それは、法要の時に読まれているお経が何を言っているか分からないという、皆さんにとっての根本的な不満に応えたいと思ったからです。

私の元にはお電話であったりメールであったりということで、いろいろなお問い合わせがあります。そういうご相談者は私たちの想像をはるかに超える壁を乗り越えてお問い合わせをしてきてくださっている、というふうに思っています。

例えば、ご当人は生きようと頑張っているにも関わらず葬儀について考えてしまうことに罪悪感を感じていたとか、葬儀を口にしたばっかりに兄弟姉妹から非難を浴びて苦しかったとか、でも葬儀を出さなければならないという現実は迫ってきているわけで、ご相談者にはその不安とか費用の心配とかが大きく圧し掛かってきているのです。そういう部分を考えると、私たちはご相談者になることもできませんし、そのご家族になることはできませんけれども、私たちができることを一所懸命、全力で向かわせていただくことが必要なのではないかと思っています。それはお寺さんにもお願いしたいことでもあります。

 死というのはいつどんな形で訪れるかわかりません。ご相談にのっていますと、天寿を全うされる方もいれば生後数日で亡くなる方もいらっしゃいます。私も今、末期がんの父親を抱えていまして、先日お医者さんから余命一ヶ月、長くて三ヶ月と宣告されました。自分では死に対して比較的慣れ親しんでいるつもりでいたのですが、実際に告知された時は頭の中が真っ白になって、何処を歩いているのか判らなくなってしまいました。

 私の相談員仲間もつい先日、とても元気だったお母さんが突然亡くなってしまい途方にくれていたということがありました。要するに、いつどんな形でなのかか判らないな。と思った時に、生きているということは、(私は四十才で年齢的にいえば若輩者ですけれども)いつどうなるか判らないという中に、生かされていることだと思うのです。ですから一瞬一瞬を大事にして、つまらないことですけれども、ジュースを飲む時には「これでいいや」ではなく「このジュースを飲みたい」と、食べる物もこれを食べたいと思いながら生きていたいなと、思いながら今、やらせていただいています。

本間 佐々木さんのように経験を積まれた方でも肉親の死に直面せんとする時には、他人に対してできることがなかなかできないという想いがあるわけですね。

僧侶が儀式を執行する際、おそらくどの宗派でも、葬儀ではこれ、法事にはこれ、というふうに読むお経が決まっているのではないかと思います。そうすると経験を重ねるうちに、読経という営為がつい定型化した業務に堕してしまう危険性もなくはありません。

もちろんいうまでもなく、一人ひとり亡くなり方は異なりますから、それはあってはならないことです。おそらくほとんどの僧侶は、儀式の執行に先立ち、個々の死に関するエピソードや人間関係に十分思いをめぐらせたうえで法要に臨んでいるはずです。

さて、以上で今日のお話しは終わりです。今回は僧俗異なる視点から意見を述べさせていただきました。私と佐々木さんとでは立場は違いますが、葬儀式の変化を肌で感じつつ、その背後にあるものについて、多分に似通った認識を共有していることがわかりました。今後それはどう変わっていくのでしょうか。五年乃至十年後、またこういう機会を与えていただき、検証できれば嬉しいなと思います。本日は最後までどうもありがとうございました。

(22.2.25「いのちを見つめる集い」より)

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